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2007年6月25日 (月)

沖縄公演報告-3[交流編]

Photo_23沖縄公演で様々な方々に出逢った。観客・関係者ひとり一人との出逢いに感謝しつつ、数名を書き留めておこうと思います。(実は今回の公演報告はこれが本命)

三線を弾くOさんのおじさんG那覇さんは、18才の時に鹿児島へ向かう船(湖南丸)に乗っていて魚雷攻撃によって沈没させられた、いわば“対馬丸の生き残り”のような方。湖南丸に乗っていた583名の少年・少女・大人のうち、約400名が湖南丸の護衛艦だった船に助けられるが、その船も3時間後に雷撃により撃沈。G那覇さんは板きれにつかまって10時間以上漂流した後に、通りかかった軍艦に救出された。生き残りはわずか5名。その後彼らは、憲兵から「船の沈没のことは他言ならぬ」と睨まれる日々を送る…。沖縄に入った日の夜、G那覇さんのお宅に寄せて戴き、本人とお会いした。体験を語ってくださるG那覇さんのウチナー口(方言)は半分位しか判らなかったが、「今、体験を語っておかなければ」という思いはよく解った。

南風原文化センターのO館長は「ヤマトンチュもウチナンチュも関係ないよ」という言葉で出迎えてくださった。上演前後の温かい挨拶、そして終演後の交流会の楽しい司会ぶり、そして「是非またやりに来てよ」の言葉。京都人の「また来ておくれやす」は“眉つば”ですが、翌日、館長は我々が宿の近くで打ち上げをしていた店に来てくれた。壕一般公開式典後の宴席が終わっていなかったにも関わらずである。沖縄には“いちゃりばちょーでー(一度出逢えば皆兄弟)”という言葉があるそうだ。そんな島人が戦火に巻き込まれた事実を忘れてはならない。

南風原での交流会には、館の職員の皆さん、平和ガイドの方々、2人の女子大生…etc. 多くの方に御参加戴いた。戦争体験者の方も多く、感想だけでなく自身の体験も聞かせて戴いた。驚いたのは、対馬丸の生き残りの方が来られていたこと。本土ではまずあり得ない光景である。宴の終わり頃、館長の指名で女子大生達が感想を語ってくれた。「体験者が語っていくことがもちろん大切だけれども、残された時間は少なくなっていく。今夜、ヤマトの人達がこんな作品をやり続けていたことを知って、私たち若い世代にも戦争体験を語り継ぐことが出来るのではないかと感じ、勇気を与えてもらった」と。

くすぬち平和文化館のM夫妻は嘉手納基地に接収されている土地所有者で、その補償金で“児童文化館”を造られた。館内にある図書館には児童図書はもちろん、戦争に関する書物も多い。イベントスペースでは紙芝居やコンサートが定期的に行われている。館がオープンしたのは1998年、奇しくも『肝苦りさ沖縄』が始まった年でもある。交流会での奥様であるE子さんの言葉「初めは悲しみの涙で観ていたが、松代のシーンでは悔しい涙、憤りの涙になった」という言葉が忘れられない。

…続きは下をクリック…

平和ガイドタクシーのMさんには、両公演とも宿から会場への道程お世話になった。'99年にメンバー数名で沖縄南部戦跡巡りをした時に乗せて戴いたのが縁で、演出や制作は今も連絡をとっていたとのこと。沖縄の人らしい、物静かで朗らかな方で、くすぬちの公演ではバラシも積極的に手伝って戴いた。

この公演の為だけに東京から移動車とその運転を申し出て戴いたのがOさん。制作のSさんの友人で、息子さんが沖縄の方と結婚したとのこと。それにしても沖縄の道路はややこしく、ドライバーも本土より危険。慣れない沖縄での運転で気疲れも多かったことだと思います。感謝。

公演日を終え、月曜日には本作品にも出てくる渡嘉敷島(集団自決によって島民の半数329名が命を落とす。手榴弾には不発も多く、家族同士が互いに手をかけた)へ。島でガイドをして戴いたのは50代の女性ドライバー。彼女は“集団自決の碑”の前で、住民の無念を語り、島に駐留していた赤松隊への怒りを語られた。

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